ついに、農繁期突入です。
毎年この時期は、今年分の「種蒔きカレンダー」とにらめっこ。
昨年までの反省点を活かし、今年も楽しく作業したいと思います。
さて・・・
お教室会場のすぐ前、駅のロータリーの桜が見ごろを迎えた去る3月24日(木)、
しずり棚機会の麻績み~機織りまでのお教室がありました。
私は一向にうまく糸がつながらないままでしたが、
先生が「はじめは何が分からないかが分からない。」と仰っていた意味が
この二週間でよく分かりました(笑)
でも、何度も何度もやることしかないということもわかりました。
まずは体で、手先で、とにかく何度もやってみる。
静かに手先と糸に集中していると、徐々に頭の中の声もおさまって、
体感と感覚の世界の中で練習できるようになってくる気がします。
教室にいる間は、
先生の手元をひたすら見る。
見てはまた自分でやってみる。
また先生の手元を見る。
今回の教室でも、講義でも講習でもなく、「手習い」が続きます。
昔親から子へ、子から孫へと伝わってきた“手しごと” 。
先生が麻績みをしているのを見て、感じて、身に着けていきます。
教わるというより、習うという言葉がしっくりきます。
先生に習う=倣う、ということで、ひたすら先生に“ならって”やってみようと思いました。
麻績みの時間が終わると、麻打ち(おぶち)と呼ばれる工程を習いました。
これも、当然一回習ったくらいでは身に付きません。
何度もやっていくことしかありませんね。
何をするかというと、米ぬかの力を借りて、精麻を柔らかく下ごしらえします。
お鍋に精麻と米ぬかを、そして水をはります。
加熱。
温度は手で覚えます。
地面というか床に打ち付けるので、麻打ち(おぶち)。
これまた全くうまくいきません。
奥の方に先生の打った理想形が小さく映っていますが、
手前のものは「こうならないように!!!」 という悪い例の状態です。
うまく言い表せず、説明はできないのですが、
とにかくこの横に伸びきった雰囲気は×。
何というか・・・一か所に、ふんわり、こんもり・・・?
ただ、先生がおやりになるようになるまで、各自、
自宅で何度も麻打ちの工程を繰り返し、練習練習練習。!
陰干しするとこのような状態になります。
キラキラの繊維に今日もうっとり。
植物の亡骸に再び命を吹き込んでいく感じが幸せです。
しかし、先生の所作の美しいこと!!!!!!
麻打ちをする先生の凛として美しい所作に、一同惚れ惚れでした。
今回もまた、素敵な先生から、楽しい手しごとを習えるご縁に感謝でいっぱいです。
それにしても、このような糸を績む作業と機織りが、
各家庭で普通に行われて、布が自給されていた昔の日本って、すごい・・・
最近、また中谷比佐子さん著の「きものという農業」を読み返しました。
絹、麻、木綿・・・と、各素材についてはもちろんのこと、
私が読むたびに新鮮な感動を覚えるのは、
布を「1ミリも捨てない裁断技術」というところです。
少し、本から引用させていただきます。
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「1ミリも布を捨てない裁断技術」
きものを長く着続けていると、世の中のことはすべて、”循環が基本”と感じる。
人も植物も循環がうまくいかなくなると生命は終わる。
その生命の本質は滅びと再生で、きものはこの作業をじつに鮮やかに仕切っていると思う。
きものの布の長さは大体13メートル、巾は30~35センチ、その寸法の中で、袖二枚、見頃二枚、衽(おくみ)二枚、衿二枚と、布を裁ち分けて縫い合わせ、一枚のきものが出来上がる。
裁断で一ミリの布も捨てない直線断ちが、2000年以上も続いている和裁の技術である。
古代の人達が、蚕のつくった絹糸、霊気が宿る麻の布を身にまとうとき、その布の命を大切にしようという思いから、1ミリも布を捨てない裁断技術が生まれたのであろう。
きものはその後、その布のまま羽織になったり、帯に変わる。
さらにまた形を変え、布団や風呂敷などさまざまな日常の中で布として活躍する。
まさにきものは、形は滅びようが、また別の形として再生していき、自己完結をして命をまっとうするのだ。
これは、布の命をそのまま生かして使おうという姿勢から現れているもので、仕立てのとき余った布は折りたたんで縫いしろと共にはさんでしまう、という技も使う。
(「きものという農業」中谷比佐子さん著)より)
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きものは本当にすごい!
使い捨ての現代とは何もかも真逆ですね。
とても素晴らし本だと思います。
ご一読をお勧めします。